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【信On】 エピソード3 水を忘れた薬師

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 隠れ里の生産が終わってからは戦闘クエストをこなしていた。蜘蛛狩ったり、熊狩ったり、狼狩ったり、生産のおかげでレベルが上がっていたのでサクサクと進む。獣狩りが終わると、次はいよいよ波多野家に潜入してのクエスト。まずは波多野秀尚と戦闘なのだけど、これもソロで楽に勝てるレベル。
波多野秀尚(はたのひでひさ、生年不詳− 天正7年6月2日(1579年6月25日))は戦国武将。波多野晴通の次男。名は「ひでなお」とも読む。

兄・秀治とともに八上城に籠城して明智光秀軍と戦うが1年半に及ぶ攻防の末、降伏。秀治とともに安土に送られ、慈恩寺で磔刑に処せられた。辞世の句は「おほけなき 空の恵みも 尽きしかど いかで忘れん 仇し人をば」。



 次に赤井直正、籾井教業、荒木氏綱の中から一人選んで戦闘。ここは荒木氏綱との戦いを選択。荒木は手槍二刀侍と鉄砲鍛冶の構成。技能的には小細工無用と鍛冶の挑発がいやらしいけれども、霧散と看破がないのが薬師的には嬉しい。鉄砲による間接攻撃が元々反撃できない薬師ソロにとってあまり脅威ではないのもポイント。

 ちなみに、この戦闘では鍛冶があまりにも堅かったら面倒だと考えて、技能「呪い」を入れて開幕に鍛冶に使ってみたのだけど、何と、これが準備あり技能で開幕準備中に攻撃を当てられていきなり気合が空に近くなってしまった。なるほど、呪いは準備ありなのね。
荒木 氏綱(あらき うじつな)は、戦国時代の武将。丹波多紀郡を支配した細工所城主である。

天文4年(1535年)に生まれる。丹波に影響力のあった波多野氏の家臣として仕えた。豪勇を持つ勇将として知られ、織田信長の重臣・明智光秀が丹波に攻め込んできたときにも、織田軍を何度も撃退している。しかし天正7年(1579年)、波多野秀治が織田軍に捕らえられて処刑されると、明智光秀に降伏した。このとき、光秀は氏綱の武勇を認めて家臣として仕えるように請われたが、自らは病身のためもあって拒絶し、代わりに嫡男の荒木氏清を出仕させている。

天正7年(1579年)に死去。享年45。



 波多野クエ最後は波多野秀治を倒すこと。さすがに秀治をソロ薬師で倒すのは面倒だし、そもそもこのレベル(17)では無理っぽいので、ここでようやく初めて徒党を組むことに。戦闘中の写真を撮り忘れてしまったが、徒党員に助けられて何とか撃破することに成功する。

 しかしなあ、こういうのって荒れる原因になるからあんまり云いたくないんだけどさー、薬師が全然回復しねーの。お前、技能に治療入ってんじゃねーの? 一人だけ玄人ぶって戦闘の前に実装披露して悦に入ってたじゃん。そしたらさー、「水を忘れてしまいました」だって、舐めてんの? 薬師が水忘れるなんて。普通なら絶交だよ? 晒しだよ? そいつの名前は、

市原浩一

 って僕でした。ごめんなさああああああい。これは本当に申し訳ない。初め、バグかと思った。戦闘中に治療の技能が出てこないからバグかと思って、コーエーが悪いことにしようとしてた。本当にごめんなさい。実際に薬師やってみて、意外なところに落とし穴があるもんだと思った。ダンジョンついてから食料が切れそうになってることに気づくことがしばしばだった僕だから、この落とし穴には常に注意しておかないと……。
波多野 秀治(はたの ひではる)は、丹波の戦国大名。波多野氏最後の当主である。

天文10年(1541年)、波多野晴通の子として生まれる。晴通は波多野氏本家の当主であり、秀治はその後を相続したはずと考えられるのだが、なぜか一族の伯父である波多野元秀の養子となった上で家督を継いでいる。

波多野氏は秀治の祖父・波多野稙通の死後から三好長慶に服属していたため、秀治は最初は三好氏の家臣であった。そのためか、正親町天皇の即位式のときには列席していた。だが、長慶死後の永禄8年(1566年)、秀治は居城の八上城を奪還し、戦国大名として独立した。また、播磨の別所長治を娘婿として同盟を結んでいる。

永禄10年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、信長の家臣となった。天正2年(1575年)には信長が派遣してきた明智光秀の軍勢に加わって丹波で織田氏に反抗する豪族の討伐を担当したが、天正3年(1576年)1月に突如として叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した。

これに激怒した信長は、光秀に命じて再度の丹波侵攻を命じた。しかし秀治は八上城に籠城することによって、光秀の攻撃を1年半にもわたって耐え抜いたが、光秀の調略で味方であったはずの丹後・但馬における豪族が織田氏に寝返り、さらに長期の籠城戦で兵糧も尽きてしまい、天正7年(1579年)に光秀に降伏した。

その後、秀治は弟の秀尚と共に安土城に送られたが、信長の命令で6月2日に安土の浄巌院慈恩寺で磔に処された。享年39。秀治兄弟の死により、波多野氏は滅亡した。

なお、この日は奇しくも本能寺の変からちょうど3年前の出来事である。
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