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【本】 『八月の路上に捨てる』 (伊藤たかみ)

八月の路上に捨てる 八月の路上に捨てる
伊藤 たかみ (2006/08/26)
文藝春秋
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 文藝春秋2006年9月号が発売されて少し時間が経ったが、今日ようやく文藝春秋に掲載されていた第135回芥川賞受賞作である伊藤たかみ氏の『八月の路上に捨てる』を読了した。

『八月の路上に捨てる』は三十路になる脚本家志望のフリーターである男が自身の離婚という生活と自動販売機の缶を補充するという仕事を通して話が進められる。芥川賞選評にざっと目を通すが、気を惹く文章を書いていたのは石原慎太郎と村上龍だけ。芥川賞受賞作がつまらないのもむべなるかな。
 私は推さなかったが受賞作になった伊藤たかみ氏の『八月の路上に捨てる』は、離婚という別離についての、自動販売機の商品補填係りという現代的な仕事の上でのパートナー同士の離婚の感慨の対比が主題となっている。風俗としては新しい風景の中での二人の離婚についての感慨は思いがけぬほど軽く他愛もないものに感じられるが、それが当節のアメリカナイズされた離婚の人生における比重ということなのか。部分的には巧みで鋭く感覚的なところもあるが、いかに軽く他愛ないものだろうと、離婚という、結婚を選択して選び合った男と女の別離の芯の芯にあるものの重さをちらと感じさせるのが文学の本髄というものではなかろうか。
 というのは石原慎太郎の選評。文学者石原慎太郎というよりも政治家石原慎太郎の側面が強く出ている。個人的には文学者石原慎太郎よりも政治家石原慎太郎の方が好きである。毎回ほとんどぶれない選評姿勢には感心する。

「いかに軽く他愛ないものだろうと、離婚という、結婚を選択して選び合った男と女の別離の芯の芯にあるものの重さをちらと感じさせるのが文学の本髄というものではなかろうか」というのは全く同意で、この作品はあまりにも軽すぎる印象が否めなかった。無論離婚という行為に対して軽すぎる意識が問題だというのではない。離婚も含めた生活風景そのものが軽薄であり、平坦な調子のを維持した結果、離婚という出来事が大事にも小事にもなっておらず、人生もしくは人生の何かに対する作者の切実さを感じられなかった。繰り返すようだが、作中の登場人物が軽薄であることが問題なのではない。作中の登場人物の軽薄さを通して、何を読み手に伝えたかったのかがわからなかったのが問題なのだと思う。村上龍氏は以下のような選評を書いている。
「なぞる」という言葉がある。たとえばトレッシングペーパーを使って原本コピーからの写経のような行為を指す。「真似」とは違う。今回の候補作はどれもレベルが低く、小説や文学というものを「なぞっている」ような気がした。
……
 問題は、何を伝えようとしているのかわからないということに尽きる。作品のテーマとか、言いたいことは何か、という意味ではない。テーマなんか基本的にどうでもいいことだし、言いたいことがあるのだったら政治家のように駅前に宣伝車を止めてスピーカーで怒鳴ればいいのだ。ただし小説はメディアなので「伝えたいこと」がなければ存在価値がない。
 文藝春秋の目次に「格差社会の底辺に生きる若者の仕事と離婚 フリーター文学の誕生!」とコピーがついていた。僕はこの小説のどこが格差社会と関わりがあるのかよくわからなかった。脚本家志望でフリーター志望なんて昔からいたし、脚本家になれないのは別に格差社会のせいではない。

『八月の路上に捨てる』は表現力は高かったと思うし、読みやすく、現代の風俗に照らし合わせても違和感がないと感じた。ただ、文学に必要なのは現代の風俗のうわべをなぞることではない。吉村萬壱のように数十年前を舞台にした小説にしてもいい。重要なのは村上龍の言っているように「伝えたいことが何か」というのが小説に存在するか。そしてそれが読者に伝わるかであると思う。残念ながら伊藤たかみ氏の今回の小説にはそれが感じられなかった。

 ただ、最近の芥川賞受賞作に比べて特別酷いというわけではない。金原ひとみや綿矢りさはもっと酷かったし、絲山秋子もこれと同等のレベルの作品ではなかったか、と思うのだが。
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