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【本】 『悲しき熱帯』 (村上龍)

悲しき熱帯 悲しき熱帯
村上 龍 (1984/09)
角川書店
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あとがき
 本当は、熱帯は悲しくなんかない。
 悲しいと感じる人間が、悲しいのだ。
 この短編の舞台は熱帯だが、もちろんその場所も風景も動物も魚も果実も、小説家の自意識が描くところの蜃気楼である。
 ずいぶん前に書いたものばかりだから、今、客観的すぎるほどに、作品を眺めることができる。すべての作品の主題は、強権・父権・神権といったことだ。熱く、袋のような閉鎖的場所に住む、「裸」の少年が、父権・強権を、渇望する。
 言うまでもなく、父権とは幻想である。だが、少年はいずれ、その幻想と同化すべく、歩きださなくてはならないのだ。
 私はいずれ、父権=幻想そのものを、母性的なるものの助けを借りずに、描きつくす作品を書くつもりだ。
 村上龍を語るときに散々使いまわされる言い方だが、やはり村上龍は昔の方が優れた作品を出していたと思う。本作もまたそう感じさせる若き頃の村上龍の作品である。

 本作に含まれている五つの短編はいずれも熱帯を舞台にした寓話的小説であり、著者があとがきで述べているように全ての編に父権的な幻想が含まれている。時にはそれが、妹を噛み怪我を負わせた犬への復讐に自らの手ではなく闘鶏用の鶏を使って復讐をしたり、またある時には、自分はスーパーマンと名乗る老人の男が星に帰ると言い張り何度も飛行を繰り返したり、といった風に描かれている。本書の巻末に栗本慎一郎が解説で書いてあるように男が幻想的なものを守る姿、それは換言すれば幼いということになろうが、その幼さを貫き、結局最後には虚しく死んでしまう。

 村上龍の手によって、男という存在の馬鹿馬鹿しさとやりきれなさのようなものが描かれているが、恐らくそういった幻想的なものが世の中には不可欠なのだろうな、ともまた思わされる。村上龍の作品において幻想的なものと乖離した人間は大体肥えている。それは豊かさの象徴であるが、一方で、肥えた人間に対する男性的な存在としての貧しさが表現されている。また、『五分後の世界』などがそうだが、村上龍は自身を肥えた側の人間だと自覚している。だから、村上龍がスノッブぶるのは自虐的になっているからではないかと僕は思う。

 本作は短編小説だが、短編であるが故に、村上龍の感性が凝縮されており、その味わいは格別だ。これが例えば同じ短編でも『トパーズ』だと所詮は情報を技術で構築しただけの作品であるのに対し、本作が楽しいのは村上龍という男性と小説の主人公に感覚的な部分でズレがないからだ。また、あまり長々と書かないことで幻想的なものの決定的なボロを出さずに済み、ある種のみっともなさが生じていないのがよい。
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