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【本】 『海の向こうで戦争が始まる』 (村上龍)

海の向こうで戦争が始まる 海の向こうで戦争が始まる
村上 龍 (1980/11)
講談社
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限りなく透明に近いブルー』に続いて村上龍の2冊目の著書となったのが本作『海の向こうで戦争が始まる』である。

 男と女が海辺で戯れながら海の向こうの遠くの町の祭りと戦争を見るというのは『限りなく透明に近いブルー』に出てくるリリーが見た夢であり、遠くの町に映る戦争の光景は『限りなく透明に近いブルー』での「僕」の願望であり、村上龍自身の願望だ。

 金のためにゴミ捨て場で桃の種子を拾う貧しい子ども達、祭りの喧騒に取り込まれていく若い衛兵、そして病に倒れた母親を持つ洋服屋などが破壊への希求を募らせ、それが戦争によって叶えられていくシーンが海辺の「僕」と女の目の中の世界に映し出され、詩的に紡がれていく。

 本書巻末の今井裕康の解説によれば、戦争が起こるのは経済的要因や政治的要因ではなく、仮にそう見えたとしても、それは見かけにすぎず、戦争は人間の心にひそむ恐怖への憧れや破壊への欲望が招き寄せるものらしいが、僕もそう思う。

 強く反発する人もいるかもしれないが、僕が本作から読み取った戦争というものは単に物質的なものだけではない。

 破壊がなければ再生もないという理念は、現在においても男社会そのものに対する変革によらなければ再生はないというフェミニズム的な考えや常に進歩的な捉え方で物事をリードし保守的思想を切り崩していこうとする考え方や反権力・反体制など一般に平和的思想を持つとされる人間に対しても当てはまる。新しいものを創ろうとするとき、我々は必ず邪魔になる古い何かを壊し殺そうという破壊への欲望に支配されるのだ。

 それを巧みに描いてみせた本作は僕のなかで村上龍の一番の傑作である。
 日曜日の公園に行ったことがあるか? 一日中ベンチで新聞を読んでいる年寄りを見たことがあるだろう? お前達のじいさんだ、耳が遠くなり牛乳瓶の底のような眼鏡をかけてただ一日中新聞を見ている。時々鳩に餌をやることもある、同じ年寄りの友人と話すこともある、昔話だ、今、お前らがやっているようなこと、酒を飲み女と寝て博打で金をかせぎ、車に乗って音楽会に行き、フランス料理を食べて映画を見て外国の田舎で本を読む、そういう昔話をしている、お前達は同じ毎日を繰り返しそういうじいさんになるんだ、日曜日の公園で微笑むために生きている、お前達は単調な繰り返しの隙間で見つけた大事な思い出を後生大事に頭にしまっておく、牛の食事のようにそれを、その思い出を、日曜日の公園でじじいになった時に味わうためにだ、しかし、お前らはそういうことに背を向けた勇気ある男達だ、お前らが今やることはそういうことではない、はっきりと別のことをお前達は選んだ、それはじじいにならないための唯一の方法だ、人を殺し自分も死を賭けるというのはそういうことだ、これはすでに決められてある、誰が決めたものでもない、人間の本性でもない、人間は優しい動物だ、人間程優しく戦いを嫌う動物はいない、人間はとても優しい動物だ、いいか、温度なのだ、温度だ、お前達は朝、髭を剃るだろう? その時何とも言えない気体のようなものがフワフワと洗面所に漂っているはずだ、昼間、お前達が恋人と一緒に歩いていて接吻した時、何かがお前達の中から出ていくような気がするはずだ、温度が出ているのだ、植物が静かな呼吸をするように私達は温度を吐きながら生きている、いいか? 温度は最初からある、全てが爆発してこの宇宙が暗闇になり、全てが静止して時間さえなくなっても、温度だけは残るのだ、温度は全体が一定になるように定められ、私達がじじいになる努力ばかりしていると少しずつずれができてしまう、いつか誰かがそのずれを修正しなければならない、お前らが選ばれたんだ、お前らは選ばれた人間だ、お前らはずれを修正するために生まれてきたんだ、戦争は恐ろしい、みんながそう思っている、それは正しい、いつだって戦争は恐怖だ、私も怖い、小便を漏らしそうになる、しかし、考えてみろ、恐怖の裏側にはいつも何があった? 恐怖の向こうにあるものは何だ?
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