【本】 『ぼくは勉強ができない』 (山田詠美)
![]() | ぼくは勉強ができない 山田 詠美 (1996/02) 新潮社 この商品の詳細を見る |
ぼくは確かに成績が悪いよ。でも、勉強よりも素敵で大切なことがいっぱいあると思うんだ―。17歳の時田秀美くんは、サッカー好きの高校生。勉強はできないが、女性にはよくもてる。ショット・バーで働く年上の桃子さんと熱愛中だ。母親と祖父は秀美に理解があるけれど、学校はどこか居心地が悪いのだ。この窮屈さはいったい何なんだ。凛々しい秀美が活躍する元気溌刺な高校生小説。山田詠美の青春小説。ぼくは勉強ができない。でも勉強よりももっと大切なことがあると思うんだ。はいはい。わかった、わかった。僕ちゃん、おいくつ? と著者が男なら芥川選考委員の山田センセよろしくコメントするところだが、著者は女で、しかも山田センセ自身だというところがすげえな。
山田詠美の青春時代を投影した主人公の男の子は良くも悪くも思春期の男の子らしからぬスマートな考えをしていて正直な山田詠美が出ている。勉強はできない、というのは学校という体制などによる教条主義的なものに対する抵抗であり、そんなものに囚われるよりもイケメンでスマートで女にモテることの方が大切さ、となっている。ただし、勉強はできないが、馬鹿では困る、ということで、主人公は決して無学なわけではなく、読書をこなしており、ちゃっかりと教養主義的であるのが本作全体に通じる矛盾を象徴していて馬鹿馬鹿しくて面白い。
この小説の駄目なところはある程度読書をこなしていて、太宰治の小説の内容を援用した表現をするほどの教養の主人公の思考があまりにも稚拙であるところだ。勿論山田詠美自身の考え方に通じるのだろうが、偏見を嫌う割に、母子家庭であることに同情を寄せる者や一生懸命に勉強ばかりしている者に対して、偏見をぶつけてしまっているのだ。主人公を通して世間の良識や偏見とそれを実践する人間を小林よしのりよろしく一方的に醜く侮蔑的に描くことに終始してしまっており、偏見を持って醜いのはどちらだと考えさせられてしまうのである。もっとも、それに対するある程度の葛藤を描くことでフォローもされている。それで内容が濃密であるならば、文学なんてそんなものとまだ許せたかもしれないが、あまりにも薄っぺらく短絡的な考えがつらつらと書かれているのだから山田詠美の底意地の悪さも重なってやはり読んでいて辟易してしまう。
なお、この小説における世間の偏見への抵抗は、乙武クンの五体不満足にも通じるものだが、母子家庭であることを不幸にしているのは母子家庭であることに同情している人間や偏見を抱いている人間がいるからだ、という時々都合よくフィールドを広げて使われる考え方には、強く異を唱えておきたい。本作の主人公の男が母子家庭であることに強くコンプレックスを抱き、それに対する同情的な視線にキッと攻撃的な態度を見せるのもわかる。僕もそんな感じだった。高校のときに友達に父親の職業聞かれて、父親がいないなんて云えなかった。それは周りの視線とか圧力とかそういうものが多分に関係あるのだろうし、そういう気持ちはわかる。でも、だから偏見・特別視をなくせばいいというのは違う。そんなのは介護施設にでもボランティアに一回行ってみればわかるが、所謂「ハンディキャップ」はシステムで全て合理的に機会の平等的にフォローすれば済むなんて話じゃない。両親揃った家庭よりも片親の家庭の方が不自由になりがちな側面があるという現実を無視して強がることは自由であるし、誰かに助けを借りなくても充分に自立できる母子家庭も少なくないのだろうが、そうではないところも沢山あるわけで、偏見換言すれば思いやりが紡ぎ出す膜を突き破ってやっていけるところはそうすればいいが、その膜のおかげで助かっているところもあるという現実を認識すべき。自分にとって世間の偏見や特別扱いが邪魔だったという主張は勿論アリだが、それを同じ境遇の人間全てのフィールドに広げて仮想連帯的に主張するもんじゃない。
それにしてもこの本だけではないが、どうして母子家庭をやたら正当化しようとするのだろうか。まあ、なっちゃうもんはしょうがないし、やむをえない理由があるのもわかるし、子どもがコンプレックスのためにそうするのはわかるが、親で母子家庭であることを過剰に誇ってるのがいたら、俺はぶん殴ってやりたい。これも母子家庭で育った一人の人間の意見ということでよろしくお願いします。
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